Beef CREATOR

2022.12.21
ビーフキングダム~王者の視点~

不撓不屈のキングダム 【前編|壮大なる旅の始まり】|N.B.P.JAPAN株式会社 代表取締役会長 菊子晃平氏

10年以上遅れの日本市場参入。当時、すべての人から絶対に失敗すると断言された寡占状態の輸入牛肉市場において、徹底したマーケティングとあくなき品質改善の積み重ねで、US産チルドビーフの日本向け No.1パッカーに。その後BSEによる輸入停止という「暗黒の時代」を乗り越え、日本市場におけるUS産チルドビーフの市場拡大を牽引。そして、15年連続でUS産チルドビーフの日本一という不動の地位を獲得する。日本の牛肉文化の醸成に、輸入チルドビーフで歴史を刻んだ N.B.P.JAPAN株式会社 菊子晃平会長へ、競争が激化している輸入牛肉業界における今後の展望について伺った。

不撓不屈(ふとうふくつ)のキングダム【前編】では 菊子会長の新社会人時代から、National Beef日本法人代表就任に至るまでの道のりをフィーチャー。巨大3社が君臨していた日本市場で、絶対に参入不可能と断言された同社をいかにしてトップシェアへ導いたのか?そして、その成功を絶望の奈落へと突き落とす、迫り来る「暗黒の足音」とは?BEEF CREATOR編集部と、『ビーフキングダム-王者の視点-』ナビゲーター永尾まりやがお話をお聞きします。

壮大なる旅の始まり、貧しい日本の農家を豊かにする方法を探して

「すでに会長は到着されています。」 東京丸の内。大きな窓から皇居を望める絶景のロビーの先に、上品な紳士がソファーに佇む。まるで、俳優のようなオーラを纏った人物。それが、N.B.P.JAPAN株式会社 代表取締役会長 菊子晃平氏の第一印象だ。世界第2位の牛肉加工会社であり、40ヵ国にアメリカ産プレミアムビーフを提供するNational Beefの日本法人、兼アジアパシフィックの代表者。US産チルドビーフの日本市場で15年連続1位に君臨する絶対王者である。

菊子会長は秋田県湯沢市で生まれた。冬は2m以上の雪が積もる豪雪地帯の米栽培と酪農を営む農家次男。愛情深い家庭で、幸せに育てられたが、ずっと農家の暮らしは貧しいと感じていた。そのため就職は「農家が儲かるためのお手伝い、日本の農業に貢献できること」という志を抱き、全農に入社。まずは、新社会人の当時の様子を菊子会長に伺ってみた。絶対王者というイメージとはまったく異なるとても穏やかな表情、そして優しい声である。

―菊子会長:熊本で研修を受けたのちに、大阪に配属となり、国内の農畜産物の仕入れと販売をしていました。大きな組織で、教育研修もしっかり、福利厚生も寮も万全で、仕事は楽しいと感じていました。

―永尾まりや:充実した社会人生活を送られていたのですね。

しかし、入社から3年を経た、1983年1月。19時に流れたNHKニュースが、菊子会長の心を揺さぶる。まさか、これが人生の大きな舵を切るきっかけとなるとは、当時の本人は知るよしも無い。

―菊子会長:アメリカのレーガン大統領と、当時の総理大臣である中曽根首相が首脳会談を行って、牛肉とオレンジの輸入自由化を決めたという大きなニュースが流れました。聞いた直後から、胸の中がモヤモヤしはじめて止まらない、なぜそんな気持ちになるのか?三日三晩、自問自答をしました。

ひと晩、ふた晩と眠れない夜が続き、三日目の夜には辞表を書いていた。そして、翌朝、課長へ提出したという。

―菊子会長:全農の仕事には何の不満もなかった。いい仕事だし、いい環境だった。だけど、胸の奥がつかえた理由が分かった時に、このままでいいのか?という気持ちを優先した。先のプランはなかった。

菊子会長の志は「農家が儲かるためのお手伝い、日本の農業に貢献できること」である。それをまっとうするために全農に入社した。現在これだけの成功を収めた菊子会長だ。もちろん仮に、そのまま働き続けていても何らかの偉業を達成していたであろう。しかし、日米貿易摩擦を背景にした経済の不均衡を自身の人生のテーマである「農業」が政府レベル、国家間の取り決めにカードが切られたという事実にショックを受けた。そして、青年菊子晃平は「なにか行動を起こさなければ!」という衝動を止めることができなかったのである。

―菊子会長:これからの時代は国内の農業だけを見ていてもダメだ。アメリカはもちろん、世界を知った上で行動をしなければ、日本の農業を良くするなんてできない。その気持ちを抑えることはできなかった。

アメリカ横断、6000キロで見えた世界

だが、この辞表は受理されなかった。結果、退職は1年先延ばしとなる。当時は終身雇用が常識の時代。受験戦争と呼ばれ、世の親が子に優秀な大学を目指すようにと推した理由は、大企業に入社すれば、一生安定した生活を送ることができる。それが日本の高度成長時代の常識であり、幸せの神話だった。ましてや全農は超優良法人。周囲が反対しない訳がない。

―菊子会長:課長に辞表を提出した際に「親には話したのか?」と聞かれ、そういえば相談しなかったと電話で実家に報告をしたら、翌日には両親が夜行列車で秋田から大阪まで来て、父親が課長に泣きながらお詫びをし始めた。「お前は若いからなにも分かっていないんだ。いいから親の言うことを聞け!」そういって、故郷へ帰る大阪駅の改札口でみた両親の寂しそうな背中をみて辛い気持ちになり、一旦退職は見送りました。

―永尾まりや:心の底から心配してくださったのですね。愛情深いエピソードです。

そして、1年後、菊子会長は全農を退職する。この時は課長も両親も誰も反対をしなかった。皆、彼の意思と、志、そして決意の固さを理解していたからだ。

―永尾まりや:退職後は、どうされたのですか?

―菊子会長:4年間働いて貯めたお金があったので、それを元手にアメリカの農業を自分の目で見てみようと、事前に色々な農業関係の方々へ手紙でアポイントを取って、期限を決めずにアメリカに渡りました。ロサンゼルスに着いて、最終目的地のニューヨークまで、北上したり、南下したりを試みながら、アメリカを横断しました。

意外にもアメリカの大農家はこの見知らぬ訪問者を受け入れてくれた。一緒に食事をすることもあれば、中には宿泊して構わないと部屋を貸してくれる方もいたのだそう。菊子会長曰く、彼らは皆寛大だったと言うが、それだけではないだろう。農業に対する情熱をもった若き日本人、菊子晃平の魅力がそれをもたらしたことは想像に容易なことである。

―菊子会長:中西部のコロラド州では10万頭の放牧牛の絶景をみて、カンザス州では地平線の彼方まで続くトウモロコシ畑を車で走り抜けた。アメリカの農業はスケールが違う。日本にいては絶対に知ることができない世界線。アメリカだけでなく、世界中を見てみたい。そう思いました。

その後、菊子会長は商社へ転職、仕事を通じて世界の様々な農業についての知見が蓄積されていった。そんな中、アメリカで牛肉の買い付けに携わっていた際、現地企業の日本法人営業部長として声がかかり、さらにその2年後にヘッドハンティングでの縁を経て、National Beef日本法人の代表取締役社長に就任する。

―菊子会長:外資企業の日本法人社長といえば、聞こえはいいですが、日本の輸入ビーフ市場には既に巨大企業3社が君臨しており、National Beefは彼らに対して10年以上遅れて参入しました。日本に参入した企業としては4社目なので順位でみれば4位なのですが、数%のシェアも取れない。周囲からはなぜわざわざ負け戦を仕掛けるのだ?あなたに勝ち目はないと言われ続けた。

10年以上遅れでの参入ビハインドだけではない、当時は金融ビックバンで経済環境も不安定な時期。山一證券や北海道拓殖銀行など、潰れる筈がないと思われた会社が倒産し、アジア通貨危機でドル円は147円の円安。輸入業としては圧倒的に不利な環境だった。まさに、弱わり目に祟り目である。

―菊子会長:無理無理と言われ続けましたが、やる以上はナンバーワンを目指したい。目指すのは自由ですよね?だから、経営理念の第1条に「この会社はシェアナンバーワンを目指す」と掲げました。

―永尾まりや:その後、どうなったのでしょうか?

―菊子会長:設立初年度、頑張ってなんとかシェア4%獲得しました。その翌年に業界第3位、その翌年には業界第2位、そして4年目にはシェア第1位になりました。

日本におけるアメリカ牛肉のシェアのお話である。さらっと語って、ひっくり返る流通量ではない、無理だと罵られたお客様に敢えて熱意をもって向き合った。志が高く、情熱的で俳優のような出立ち。若き日の菊子会長の魅力は考えただけで惚れ惚れする。この人と仕事をしたい。そう感じる人は多かっただろう。しかし、それだけではこのシェアは取れない。菊子会長は世界一の品質水準、日本人のクオリティチェックの高さに徹底して応え続ける努力を惜しまなかった。日本企業が納得する品質向上、絶対ナンバーワンになるのだという強い意志がもたらした奇跡のストーリー。それが2002年に現実のものとなった。

フリーフォール 奈落の底へのカウントダウン

―永尾まりや:アメリカ本社からの評価はどのようなものだったのでしょうか?

―菊子会長:お前はありえない!と驚きと賞賛をいただきました。本社から「やりたいことは何でも叶える」と言われました。

当時の日本はどの産業においても、アジアで最も重要なマーケット。そこで4%だった市場シェアをたった数年でNo.1シェアに、そして最終的には40%前後にまで引き上げた。とてつもない成果である。

―菊子会長:自家用ジェットでもなんでも買ってやる。引き続き、頑張って欲しいと言われたので、副業を認めて欲しいとだけリクエストしました。

―永尾まりや:副業で起業した企業とはどのような会社なのでしょう?

―菊子会長:テクノロジーとサービスを組み合わせた会社です。立ち上げ直後から明確な収益を上げることのできる優良会社となりました。2002年は何をやっても成功する無敵の年。怖いものなんてなにもない、無限に発展できる!意気揚々でした。

「農家が儲かるためのお手伝い、日本の農業に貢献できること」の志をコンセプトに世界の様々な知見を蓄積してきた。そして、本人の魅力はもとより、米国牛肉の提供品質を日本市場のニーズにアジャストさせ、National Beefの未来への期待値も含め、お客様が付いてきてくださった。立ち上げた副業のベンチャー企業は監査法人も上場できるとのお墨付きを得た。明るい未来以外、考えることができない。

そんな菊子会長に、人生最大の不条理な暗黒時代の足音が迫り寄る。予測不能、世界中が混乱した不条理な大事件とは!?

>>>不撓不屈のキングダム 【後編|NEVER SAY NEVER】

ナビゲーター/永尾まりや 取材/渡辺恵伶奈(Beef CREATOR 編集部) 取材協力/工藤実衣菜(Beef CREATOR 編集部|MIIand) 文章・全体構成/毛利努(MORRIS STRATEGY & DESIGN CONSULTS,LLC.